まだ薄暗い銀杏並木を歩いていると、自然に前かがみになって急ぎ足になってしまう。理由は寒いから。春生まれの祐巳さんほどではないけれど、由乃もやっぱり寒いのは苦手だ。なのになぜこんな朝早くに登校しているのかといえば、剣道部の朝練だから。
「こんな寒い日だからこそベッドの中のあと10分が貴重なのに」
由乃が呟くと、右上から声が聞こえる。
「由乃、背中が曲がってる。正しい姿勢で歩かなきゃ駄目だよ」
こんなに寒いのに、令ちゃんは背筋をぴんと伸ばしてまっすぐ前を見て歩いている。もう、無駄にかっこいいんだから。ついでに地獄耳。
「寒いと思うから寒いんだよ。これくらいの寒さで音を上げていたら、道場でどうするの」
小さい時から寒稽古で鍛えている令ちゃんとは寒さを感じる器官の構造が違うんだ、きっと。でもなんだか悔しくて、背筋を伸ばしてみる。朝の陽射しは冴え冴えとして、冷たい空気で気持ちも引き締まる、気がする。
「そうそう。やせ我慢でいいからぴしっとしよう」
笑う令ちゃんを見上げると、色素の薄い髪に朝日が透けて、陰の全くない笑顔が眩しい。こうして二人で歩いていると、世界中に二人だけしかいないように思えてくる。もちろん、二人だけではないのであって、だからこそ自分はこんなに悩んでいるわけで。でも令ちゃんに悩んでいることを勘付かれないように、由乃は令ちゃんに負けないような笑顔を作ってみる。お姉さまはいつもは鈍感なくせに変なところだけ鋭いから。
頑張れ由乃。下を向いてるなんて似合わない。

マリア像の近くまでやって来ると、先客が手を合わせていた。離れていてもはっきり分かる長身に、肩口で切り揃えられた黒髪が涼しげ、というよりこの気候だとちょっと寒そうな生徒。なじみがあるのに違和感がある。あれってまさか。
「ごきげんよう……可南子ちゃん?」
「ごきげんよう、黄薔薇のつぼみ、黄薔薇さま」
やっぱり可南子ちゃんだ。ちょっと下げた頭を上げた顔は確かに可南子ちゃんだけれど、短い髪だけじゃなくて随分感じが違う。
「ごきげんよう、可南子ちゃん。早いんだね」
令ちゃんが明るく声をかける。学園祭の準備の時には可南子ちゃん相手にやけにおたおたしていたのに、こういう立ち直りの早さが特徴だわね。
「はい、部活の朝練がありますので」
「部活? 可南子ちゃん部活に入っていたっけ?」
「先日野球部に入部いたしました」
野球部? このリリアンに野球部があるとは初耳だ。ていうか、生徒会幹部が知らない部活って何よ。
「野球部があるとは知らなかったわ」
「はい、作ったんです。ですから、正確には野球部ではなく野球同好会ですが。これから正式な同好会設立の申請をしようと話し合っていたところだったもので」
「じゃあ、髪を切ったのも野球のため?」
女の子が髪を切るには理由がある、なんていうのは令ちゃんの得意分野だけれど、興味を抑えられなかった由乃は尋ねた。
「はい、あの長さだとさすがに邪魔ですから」
微笑みながら可南子ちゃんが答える。って、この子のこんな顔見たの初めてだわ。髪の毛と一緒に、重い表情もどこかへ置いてきたみたい。ふーん、こうしてみるとほんとうに綺麗な子ね。睫毛が長くて、鼻筋が通っていて、ちょっとだけ厚い唇がかえって色っぽくて……あれ?
由乃がじっと見つめていると可南子ちゃんは耳を赤くして「で、では、練習がありますので、ごきげんよう」と走り去ってしまった。
「へえ、由乃、可南子ちゃんに興味があるんだ」
「な、なに言ってるのよ。私たちも練習にいきましょっ」
まずいまずい。見とれているのを令ちゃんに悟られちゃった。令ちゃんは面白そうににやにやしている。そういう顔、どこかのおでこのお姉さまとよく似てる。

今日は朝練があったから放課後の稽古はない。そういう場合は薔薇の館に急ぐのが黄薔薇のつぼみとしての責務だけれど、今日ばかりはちょっと見ておかなければならないものがある。由乃が急いだのは総合グラウンドの一角。昼休みに山百合会権限で調べてみたら、ソフトボール部がいきなり休部になって、部員が野球同好会に移行したらしい。今日はソフトボール部にグラウンドの使用許可が出ている日だから、野球同好会が練習しているはず。
「それにしても、ソフトボール部を休部にして野球同好会って、あの子どんな手を使ったのかしら」
可南子ちゃんなら咒術だろうと脅迫だろうとどんな手段でも採用できそうだけれど、今朝の様子を見るとちょっと違う気がする。実際にプレーしているところを見たら謎も解けるかと思って視察に来たのだ。そういうことにしておこう。
ほどなくグラウンドにやって来た由乃の目に、元ソフトボール部現野球同好会の練習風景が見えてきた。マウンドなんて気の利いたものはないけれど、ダイヤモンドの中心に立っているのは間違いなく可南子ちゃんだ。
「へえ。あの子ピッチャーなのね。どんな球を投げるのかしら」
そして由乃は腰を抜かすような光景を目にすることになる。
長い足を綺麗に折りたたんだノーワインドアップのフォームから可南子ちゃんが投げ込んだストレートは、比喩ではなく轟音とともにキャッチャーミットに叩き込まれた。
「な、なにあれ???」
由乃もずいぶんプロ野球を観ているけれど、あの球は絶好調の斎藤隆より明らかに速い。
呆然としている由乃の目の前で、さらに信じられない光景が展開された。
計ったように同じフォームから投げ込まれた二球目は、ホームベース直前で消えた。消えたというのは今度はものの喩えで、凄まじい落差のフォークボールだったのである。
(すごい、あの子すごすぎるわ)
可南子ちゃんの三球目は、右バッターボックスをかすめるような球筋で外角に構えたキャッチャーミットに吸い込まれる。短い全盛期の伊藤智仁クラスの高速スライダーだった。高校野球の水準だったら魔球といって差し支えないだろう。由乃の脳裏には、入団した年のオープン戦で、石井一久のストライクになるカーブに思わず腰を引いた松井の唖然とした顔が浮かんだ。

可南子ちゃんの投球に引き込まれるように、由乃は気がつくとバックネットにしがみついていた。
「すばらしいでしょう、黄薔薇のつぼみ」
かけられた声にはっと我に返ると、そこには元ソフトボール部部長現野球同好会会長がいた。予算折衝の席などで会ったことはあって面識がある。
「キャッチャーの敦子ちゃんが連れてきてくれたんですが、あの球を見た瞬間、甲子園が狙えると思いましたの。もうソフトボールをやっている場合ではありませんわ。ソフトボールをしている女の子はみんな本当は甲子園に憧れているのですから」
部長の顔は陶然として、甲子園の内野席を埋め尽くす深い色の制服を夢想しているようだった。
「部長さんっ」
「は、はいっ」
部長は由乃の剣幕にびっくりしていたけれど、自分が黄薔薇のつぼみに手を握られているという事実を認識して今度は真っ赤になった。面白い人だなあ。
「もう同好会なんてへっぽこなことを言ってる場合じゃないわ! 今すぐ正式な野球部の発足よ。私の権限で何とかするから、絶対に甲子園を狙って下さらない? いえ、甲子園に行くの。これは山百合会の決定です!」
「わ、わかりました黄薔薇のつぼみ。……あ、あの、そろそろ手を放していただけません? その、嬉しいのですけれど」
由乃は気合いが入りすぎて部長の手を握ってぶんぶん振り回していたのだった。
「あ、ごめんなさい。ちょっと興奮してしまったようだわ。私としたことが。おほほほほほほ」
こういう場合は笑ってごまかしておこう。イッツ黄薔薇のつぼみマジック。
無事ごまかせたようで、部長はさらに夢見心地で話を続ける。
「それに可南子ちゃん、とてもいい子なんですよ。あれだけの実力があるのに謙虚で優しくて明るくて。グラウンド整備も球拾いも率先してやってくれるし、ミーティングの時なんて自分で焼いたクッキーを持って来てくれたりするんです。あれは美味しかったなあ。しかもあんなに綺麗で。私に妹がいなかったら今すぐにでもロザリオを差し出しますのに」
「そ、それはだめ!」
由乃は思わず叫んでしまった。なんでだめなのかさっぱり分からないけれど。
「まあ、黄薔薇のつぼみは可南子ちゃんを妹になさりたいんですの? それなら大歓迎ですわ。それに可南子ちゃん、練習が忙しくなって山百合会のお手伝いにいけないものだから、黄薔薇のつぼみにお会いできなくて寂しいっていつも言っていますのよ」
「へ? 私に? 祐巳さんじゃなくて?」
なんだか話が変な方に向かってるぞ。
「そういえば紅薔薇のつぼみのことを話しているのは聞いたことがありませんわね。いっつも由乃さま、由乃さまって。本人も意識していなかったようで、この間指摘したら真っ赤になって何やら誤魔化していましたわ。そういうところもかわいくて」
うーん。由乃が知っている可南子ちゃん像とは相当違う。可南子ちゃんといえば祐巳さん信奉者だったのが可愛さ余ってっていう状態になって、それでも山百合会の手伝いはしていたものの、どうにも取っ付きが悪くて暗い印象の子だったけれど。なんだよクッキーって。そんなことをする子には死んでも見えなかったのに。大体由乃のことを?

そんなことをしている間に、打撃練習が始まった。どの部員もなかなか鋭い打球を飛ばしているのに由乃が感心していると、可南子ちゃんが左バッターボックスに入った。へえ、左打ちなのね。松中を思わせる大きなバッティングフォームが醸し出す威圧感は体格のせいだけでは決してない。
打撃投手がフォームを起こすと可南子ちゃんは右足を大きくあげる。一本足打法? と由乃が思う間もなく、バットが一閃され、鋭いライナーが弾き出された。
一瞬セカンドライナーに見えた打球は、そのまま軌道を上方に変えて、隣で練習しているハンドボール部の頭上をはるかに越えてグラウンドのネットを超えた。
「……あの子は中西太か」
投げても凄ければ打ってもまた物凄い。番場蛮みたいな子だわ。捕鯨で鍛えたという話は聞かないけれど。
可南子ちゃんが放つ打球は、全て弾丸ライナーなのだが、それがことごとくホップしてネットを超えていく。しかも右に左にセンターに自在に打ち分けている。センターに飛んだ打球など、軽く150mは飛んでいる計算になる。
さらに由乃はとんでもないことに気がついた。他の部員は当然金属バットなのだけれど、可南子ちゃんだけは木製バットなのだ。
もう由乃は大声で叫びたかった。ここに日本の、いや世界の野球を変えてしまうかもしれない逸材がいると。スポーツは大好きでたくさん観てきたけれど、こんなに興奮した体験はない。常識が突き崩される快感に体が震えている。
「いけない、こんなことをしてる場合じゃないわ」
由乃はスカートのプリーツが翻るのも気にせず、薔薇の館へ急いだのだった。

「……というわけで、野球同好会の部への正式な昇格の動議を提出します!」
既に始まっていた会議中に飛び込んできた由乃の緊急動議に、山百合会メンバーは唖然として何も言えなかった。かろうじて由乃の爆弾投入には慣れている令ちゃんが聞き返す。
「どういうことよ由乃。野球同好会は設立申請が出たばかりなのに、いきなり部に昇格なんて無理よ」
「ばかね令ちゃん。そんなお役所仕事をしていたら、貴重な逸材が埋もれてしまうの。令ちゃんは土井正三になりたいの?」
「それじゃわからないよ。ちゃんと説明して」
ようやく自分の説明不足に気付いて、由乃はたった今見てきた光景を伝えた。みんな信じられないという顔をしていたけれど、祐巳さんだけはなんだか複雑な表情だ。
「なによ祐巳さん。あんまり驚かないのね」
「う、うん。私見たことあるんだ。可南子ちゃんが投げているの」
「え、どこで?」
「うん、ハマスタで。スピードガンコンテストに出てたのよ、可南子ちゃん」
祐巳さんが言うには、瞳子ちゃんとハマスタへ試合を見に行った時、偶然可南子ちゃんがスピードガンコンテストに出ていて、162km/h の豪速球を披露したらしい。これは使える。
「皆さんお聞きの通りです。可南子ちゃんはプロも注目の選手なんです。そんな選手がいるチームが、学園の正式な支援が得られない同好会止まりだというのは大きな損失です!」
由乃の演説は功を奏したようだった。「なんですって、祐巳が瞳子ちゃんと二人で……」と拗ねてしまった紅薔薇さまが使い物にならないので、令ちゃんの提案で結論が出た。
「じゃあ、こうしよう。いきなり部に昇格は無理。対外試合の実績がないからね。だから、練習試合でいいから、部としての実力を証明できれば昇格の要件を満たすということで」
練習試合か……。どこか相手は、と考えた由乃に名案が浮かんだ。
「祐巳さん、祐麒さんに頼んでもらえないかな? 花寺の野球部との練習試合」
「え、いいけど……。可南子ちゃん大丈夫かなあ」
「あの子の実力なら大丈夫よ。なに心配してるの祐巳さんったら」
「ううん、そうじゃなくて。可南子ちゃん男嫌いだから、花寺の野球部員にビーンボール食らわせたら死人が出るよ。あの実力だからこそ」
「うん、あの子なら殺人L字魔球くらい投げそうよね……。ええと、そうじゃなくて。大丈夫だって。私が何とかするから」
「何とかするって、由乃さん何か思い当たることがあるの?」
「なに言ってるの祐巳さんったら。こういうのはカンよカン。大丈夫だって気がするのよね」
「まあ、そんなに言うんだったら大丈夫なんだろうけど。分かった、祐麒に言ってみるね。向こうの野球部もほいほい飛んできそうではあるけどね」
「まあそうよね。花寺の野球部の皆さんだって公にリリアンの生徒と接触できるんですものね。先方にもいい話だと思うし。祐麒さんによろしくね」

「じゃあ、今から野球同好会の視察に行こうか。由乃の話だけで判断するのもあれだし」
祐巳さんとの話がまとまると、令ちゃんが提案した。令ちゃんも興味津々らしい。そういうわけで全員でグラウンドに向かうことになった。道すがら紅薔薇さまは「祐巳が……」とぶつぶつ言っているし、白薔薇さんちと来たら
「可南子さんそんなに凄いなら楽天に入らないかなあ」
「あら、乃梨子はマリサポでしょう? なのにどうして?」
「だって志摩子さん、おっさんだらけの弱小球団に彗星のように現れた美少女投手なんて最強のネタだよ」
「だとしたら可南子ちゃんが右のオーバースローなのは残念ね。左のアンダースローならよかったのに」
「楽天に『にょほほほ〜』とか言いながら投げるベテラン左腕はいないよ」
なんて頭の痛くなるような会話をしてるし。あんたたち年いくつよ。客観的に見たら変な集団よね。令ちゃんも令ちゃんで「楽天」という単語に反応してる。福盛もいるし岩隈まで入ったものね。
そんなこんなでの山百合会総出の視察に野球同好会は驚いていたようだったけれど、話を聞いてとても喜んでくれた。祐巳さんと由乃を除く他のメンバーは可南子ちゃんの実力に目を剥いていたし、由乃はとても満足だった。
練習が一段落ついたところで、由乃は可南子ちゃんに声をかけた。
「可南子ちゃん」
「由乃さま。ありがとうございます。いいお話をいただいて」
「ううん、いいの。私が応援したいだけだから。でも、男の子との試合で大丈夫なの?」
「はい、たぶん大丈夫だと思います。ちょっとトラウマがあったんですが、自分なりに折り合いがつきましたので」
そのトラウマが何でどういう風に折り合いが付いたのかは分からないけれど、そんな風に軽く言えるんならほんとに大丈夫なのね。
「ところで可南子ちゃん。よくあなたの球を捕れるキャッチャーがいたわね」
「ソフトボールも体感速度はかなり速いのですぐに慣れてくれました」
「そうなの。てっきり腹で球を捕る腹筋ムキムキのどんくさいキャッチャーでもいるのかと思ったわ」
「私は土門ですか」
ちょっと拗ねてみた可南子ちゃんだけれど、口元は笑っている。嬉しそうな可南子ちゃんを見て由乃の満足メーターはさらに上昇する。
「ほんと、頑張ってね。絶対応援しちゃうんだから」
可南子ちゃんの手を握って言うと、可南子ちゃんは耳まで赤くなって目を泳がせながら「ありがとうございます」と小さな声で言った。
そんな様子を横目で眺めていた令ちゃんが言う。
「由乃、いつの間に可南子ちゃんとそんな仲良しさんになったの? そもそもこんなに野球同好会に肩入れするのはどうして?」
どうしてって。この実力を見たら放っては置けないじゃない。
でも。
本当にそれだけだろうか。
朝の可南子ちゃんの様子や、さっき聞いた野球同好会会長の話が交錯する。
「い、いいよ由乃。軽く言ってみただけだから。ね?」
例によって令ちゃんがおろおろし始めたけれど、今ばかりは由乃も腹を立てる気にならない。由乃自身、自分の気持ちが良くわからなかったから。
私のこの気持ちは何だろう。

次の朝、由乃は令ちゃんより早く家を出た。朝練でもないのにこんなに早く登校するのは、今日も野球同好会の朝練があるから。練習を可能な限り視察するのは動議提出者の義務だから。
でも、それだけじゃない。
早足で校門をくぐりマリア像へ急ぐ。そこには彼女がいるはずだ。そして、やっぱりそこに彼女はいた。
「ごきげんよう、可南子ちゃん」
「ごきげんよう、由乃さま」
可南子ちゃんが微笑む。一瞬くらっと来た由乃だったが、そこは黄薔薇のつぼみの威厳でぐっと我慢する。
「ねえ可南子ちゃん、可南子ちゃんって、変わったよね? とっても優しい顔をするようになった」
由乃はいちばん聞きたかったことを思い切って尋ねた。
「私、由乃さまが羨ましかったんです」
「私が? どうして?」
「由乃さまはいつもご自分に正直で。気持ちを表に出して言いたいことを言われて。あ、わがままとかそういうことじゃないですけど」
「いいよ無理にフォローしなくて」
「すいません。……私、いつも自分を押し殺していましたから。その反動で祐巳さまにはひどいご迷惑をおかけしてしまいましたし。由乃さまみたいに前向きで明るい自分だったらどれほどよかっただろうって。みんなと仲良くなれたらって。ずっと思っていたんです。それで、自分を変えたくて敦子さん -- キャッチャーの子ですけど -- に思い切って話してみたら、野球をやろうって言ってくれて」
「うん。それで?」
「野球を始めて、変われたと思うんです。変われたというか、自分になれたというか。思いきり体を動かして、大きな声を出して。みんなと笑ったり騒いだり。そういうことがとても楽しいんです」
「クッキーを焼いたり?」
「いやだ、部長に聞いたんですか? ……そうなんです。私、お菓子を作ったり可愛い小物を作ったり可愛いお店を覗いたり、そういうの大好きなんです。ずっとそういうの隠してきたんですけど、ちょっと部長に話したら絶対お菓子を持ってこいって言われて。それで作っていったらみんなすごく喜んでくれて。とても嬉しかった。おかしいですよね、この身長で」
「ううん、全然おかしくないよ」
由乃は自分でもびっくりするくらい強い口調で言った。
「おかしくない。だって、私もそういう人知っているもの。背が高くてかっこよくてスポーツ万能で、お料理と編み物が大好きで少女小説が愛読書っていう女の子」
「あの、由乃さま、それってまさか」
「そう、そのまさかよ。私、令ちゃんをずっとみてきたから、変だなんて全く思わない。ううん、私が大好きな令ちゃんがあんななんだから、そういう女の子って素敵だよ!」
「……そういう風に、自分のお姉さまをかっこよくて大好きって言いきれてしまう由乃さまってやっぱりいいですよね」
「え、……こほん。とにかくね、私は可南子ちゃんを応援することに決めたの。それに、今の可南子ちゃんなら令ちゃんとだって仲良くできるし。ね?」
「でも、私黄薔薇さまにもひどい対応をしてしまいましたし……」
「いいっていいって。令ちゃんて、落ち込むのも速いけど立ち直るのも速いから。単純なの。その分かりやすいところがいいところだけれどね」
「ふふ」
可南子ちゃんは少し笑って言った。
「それでは、もう練習の時間ですので。ごきげんよう、由乃さま。また」
「うん、ごきげんよう。練習頑張ってね。見に行くから」
部室へ急ぐ可南子ちゃんの後ろ姿を見ながら由乃は考えた。なぜ自分は可南子ちゃんに「令ちゃんとだって仲良くできる」と言ったんだろう。野球同好会を応援しているのは自分で、令ちゃんだって賛成はしてくれているけれど、基本的には自分一人の問題だ。
そして可南子ちゃんは、由乃のことを羨ましいと言った。あの言い方だと、由乃のようになりたかったから、可南子ちゃんがあんな素敵な子になったようにも聞こえる。暴走特急とか強引マイウエイとか言われ放題の自分が、人に影響を与えた? そう思うと、なんだかこそばゆいような、胸の奥が温まるような感覚を覚える。
「さて、しっかり練習を視察しなくちゃね」
グラウンドへ向かう由乃の足取りは自然に弾んでいた。

数日後。祐巳さんに頼んでいた花寺とのマッチメーキングはうまくいって、週末には試合ができることになった。場所は花寺のグラウンド。花寺は戦前には甲子園に出たこともあるらしいが、最近は西東京大会でも三回戦がやっとというレベルで、決して強豪ではない。いきなり強豪相手では、可南子ちゃんはともかく他の部員には荷が重いかもしれないからちょうどいいところだろう。それでも伝統のある男子校らしく、野球部も専用グラウンドを敷地内に確保しているらしい。
「でも、随分すんなり決まったのね」
放課後の会議が終わってから、由乃は仲介役を買って出てくれた祐巳さんに言った。
「うん、祐麒がちょっと話を持ちかけたら、野球部の方でぜひやりたいって飛びついてきたらしいよ。予想通りだったね」
「そうね。でも、祐巳さん本当にありがとう」
「いいよ、私は祐麒に話しただけだもん」
「ううん、祐巳さんがいてくれたから試合ができるのだもの。それにしても、可南子ちゃんって変わったと思わない?」
「うん、変わったね。瞳子ちゃんが変わったとは言っていたけれど、ちょっと別人みたい。文化祭で吹っ切れたのかな」
「え、文化祭で可南子ちゃん何かあったの?」
「うん。でもそれは内緒。私も偶然居合わせちゃっただけで、軽々しく話せないんだ」
「そういうところ祐巳さんって律義よね。そこがいいところだけれど」
「はは。そうかな」
「そういえばトラウマがあったけど折り合いが付いたとか言ってた」
「ほんと? 可南子ちゃんそんなこと言ってた? 強いなああの子」
祐巳さんが一人で感心している。
「じゃあ文化祭のことはそのことだよ。由乃さんなら、可南子ちゃんも話してくれると思う」
「私にならって? どうして?」
「だって野球部のこと、由乃さんが頑張ったからこれだけ話が進んだんじゃない。可南子ちゃんも由乃さんのことを信頼してると思うから」
自分のことはからっきし鈍いけれど、他人を見る目は妙に鋭い祐巳さんが言うのなら本当なのだろう。由乃は、自分の中で形になっていなかった気持ちがしっかりした影を結ぶのを感じた。
「ありがとう祐巳さん」
「え、由乃さんどうして? でも、なんだかさっぱりした顔をしてるね。力になれたのかな?」
祐巳さんが嬉しそうに微笑む。やっぱりこいつはただ者じゃない。これだけ人の表情を読む力があるんだから、あの縦ロールの気持ちにも気がついてあげればいいのに。
そう、由乃は今猛烈にさっぱりしている。つっかえていたものがきれいさっぱり出たような、そんな感じ。
「よーし、週末は全員で応援よ。そうだ、祐巳さんチアやらない? フレーフレーって」
「えー、由乃さん一人でやってよ」
「一人じゃ恥ずかしいから引っ張り込んでるんじゃない。じゃあチアリーディング部にユニフォーム借りに行こう」
「だからいやだってばあ」
「……島津由乃の暴走、ね」
令ちゃんがぼそりと呟く。丸聞こえなんだからね。由乃には世界を改変する力はありませんって。
「いいわねチア。私は着たいわ」
「聞いたわ志摩子さん! じゃあ三人でチア決定ね」
「えー、勘弁してよお」
暴れる祐巳さんだったが。
「祐巳」
頭上から冷厳な声が響く。
「……お姉さま。何でしょうか」
運命を悟った祐巳さんが恐る恐る祥子さまに尋ねる。
「チアガールをしなさい。これは姉としてではなく、紅薔薇さまとしての指示です」
そんなことを言う祥子さまだが、本音は祐巳さんのチアガール姿が見たいからに決まっている。令ちゃんは必死で表情を押し殺しているけれど嬉しそうなのが見え見えだし、乃梨子ちゃんに至っては志摩子さんのチア姿を妄想しているのだろう、見たこともないようなだらしない顔を披露してしまっている。
祐巳さんは「お姉さまも……」などとごにょごにょ言っていたが、祥子さまの「私はやりませんからね」の一言で撃沈。妹にはやらせて自分はやらないっていうのが通用しちゃうのが祥子さまの祥子さまたる所以ね。令ちゃんは由乃が見たくないのでパス。乃梨子ちゃんは志摩子さんに「乃梨子もね?」と微笑まれて逆方向に撃沈。志摩子さんの目立ちたがりでコスプレ好きな性格がこんなに役に立つとは思わなかった。

かくして最強チアガール軍団も結成されて晴れて試合の日がやって来た。結局、ユニフォームを借りにいったチアリーディング部に事情を話したらのりのりになってしまって部員総出でチアをしてくれることになって、話を伝え聞いた生徒が集まって大応援団が結成されていた。応援にきた生徒たちは、白薔薇姉妹に黄薔薇のつぼみと紅薔薇のつぼみのチア姿というレアなものを目にして失神しそうな騒ぎになっているし、リリアンとの試合というそもそもがレアなものを見にきた花寺の生徒たちは、30人以上のチアガールを中心としたリリアン生徒の大群に目を白黒させていた。場所こそアウエーだけど、雰囲気は完全にホームね。勝ったわ。
そこへリリアン野球同好会がやって来た。由乃は可南子ちゃんに走り寄る。
「ごきげんよう、可南子ちゃん」
「ごきげんよう、由乃さま。……その格好は」
「本気で応援するっていう意味よ。こういうものは気合いよ気合い」
「はあ、そうですか……」
可南子ちゃんは見る見る真っ赤になって目が泳いでいる。分かりやすくて可愛いなあもう。
「それでね可南子ちゃん。一つ賭けをしましょう」
「賭け、ですか?」
ちょっと複雑な表情をする。賭けという言葉にもトラウマがあるのかしら。
「賭けというのとは違うわね。ええ、この試合に勝ったら、聞いて欲しいことがあるの」
「そういうことでしたら、私もこの試合に勝ったら由乃さまにお話したいことがあります」
「そうなの? いいことかしら?」
「内緒です」
可南子ちゃんは打って変わってとてもいい顔で笑った。この顔を見たら、祐巳さんではなくても素敵な結果が予想できる。
「わかった。じゃあ、頑張ってね。こっちも頑張って応援するから」
「はい。では後ほど」
いざ戦場へ向かう可南子ちゃんの後ろ姿はとても頼もしかった。

プレイボールの声がかかる。先攻はリリアン。花寺のピッチャーは女の子相手にどんな球を投げたらいいのか分からないようで、恐る恐る球速を殺した直球を投げ込んできた。
リリアンのトップバッターはその球を鋭いスイングで弾き返したが、惜しくも三塁線を僅かに切ってファール。その打球を見た投手はなめてはいけないと思ったか、二球目に明らかに本気の直球を外角に投げた。バッターはきれいにその球を一二塁間に打ち返し、ライト前ヒット。先頭打者の出塁である。
二番打者は落ちるカーブをきれいにバントして定石通りランナーを二塁に送り、三番打者が1-2からの四球目を三遊間に運んでワンアウト一三塁のチャンス。四番の可南子ちゃんに回ってきた。
ピッチャーはここまでの攻撃で既にリリアンの実力を侮れないと把握し、慎重に牽制球を交えながらボール球で可南子ちゃんの打ち気を誘う。しかし可南子ちゃんのバットはぴくりとも動かない。
ボールツーからの三球目、ついにピッチャーがストライクゾーンにスライダーを放った。可南子ちゃんのバットが一閃、弾丸ライナーが呆然とする右翼手の頭上を越え、ライトフェンスはるか上の土手に弾んだ。先制スリーラン。
「すごいすごい、可南子ちゃん凄いね!」
由乃と祐巳さんが手を取り合って喜び、白薔薇姉妹は微笑みながら頷く。リリアン応援団のほとんどの生徒は可南子ちゃんの実力を初めて目の当たりにして、騒ぐことも忘れてしまっていた。花寺の皆さんは……ご愁傷さま。
結局初回は二死一二塁まで攻めたが後続がなく攻撃は三点で終了。一回裏の花寺の攻撃に移る。リリアンのマウンドには当然可南子ちゃん。
可南子ちゃんが投球練習の第一球を投げ込むと、グラウンドは異様な静寂に覆われた。可南子ちゃんの球を見た誰もが口を開くのを忘れてしまったからである。
いよいよ花寺のトップバッターが打席に入る。可南子ちゃんの初球はストレート。投球練習の8割増くらいの剛球がミットに叩きつけられる。バッターは文字通り腰を抜かし、審判も一呼吸おいてようやくストライクをコールした。なんとか現実を把握したリリアン応援団がどよめきだし、やがて大歓声に変わった。
二球目、三球目もど真ん中にストレートでバッターはあえなくバットを振ることもできず三振。二番打者と三番打者も当然のように三球三振で片づけられた。
「やっぱり可南子さん楽天入りだよ! 新興弱小チームに美少女投手の救世主! 漫画だってそんな話ないよ!」
乃梨子ちゃんが興奮気味に志摩子さんに話しかけ、志摩子さんは「いいえ、可南子ちゃんはベイに入るのよ」なんて話してる。祥子さまは当然というように悠然と腕を組んでグラウンドを見つめ、令ちゃんは由乃を見て微笑みながら頷く。リリアン応援団はお祭り騒ぎだ。
二回表の攻撃は下位打線から始まったこともあり惜しくも無得点。二回裏の花寺の攻撃である。
花寺の四番打者が初球のストレートに合わせるようにバットを出すと、初めて球が当たり、死んだ打球が三遊間に転がった。ショートが素早く追いついて一塁に送球したが間一髪セーフ。可南子ちゃん初の被安打である。
「さすが四番ですね、可南子ちゃんの球に当てるなんて」
祐巳さんが祥子さまに話しかける。
「あれはへそ打法ね」
「へそ打法?」
へそ打法といえばあれだ、星一徹が青雲高校野球部に伝授した打法で、かさにかかって投げ込む速球投手に対して、せーののタイミングでへそからバットを出せばボールの方でバットに当たってくるという。祥子さまも妙なことを知ってるわね。
しかし可南子ちゃんは星飛雄馬ではないので、へそ打法の威力はここまでだった。五番打者は初球のスライダーに腰が砕けてあえなく玉砕、それ以下のバッターも右同様だった。
「変化球もすげえなんてインチキだよ」
バッターのぼやく声が聞こえたが、もちろんインチキではない。まあ、可南子ちゃんの存在自体インチキみたいなものだけれど。
三回表は先頭打者の可南子ちゃんの右中間を深々と破る三塁打を皮切りにリリアンが二点を奪い、スコアは5-0。裏の花寺の攻撃も、偶然のように当たったピッチャーゴロはあったが簡単に三者凡退。ほぼ試合の趨勢は決まった。

「ゲームセット」
審判の宣言が響き、両チームがホームベース前に集まり握手を交わす。可南子ちゃんも微笑みながら相手のエースと握手している。花寺の選手たちの可南子ちゃんを見る目が、畏怖から憧憬に変わっている。こんな凄い選手と試合ができてラッキーだよな俺達、そんな声が聞こえてきそうだ。
その通り、可南子ちゃんの活躍は凄まじかった。試合のスコア自体は11-0でリリアンの完勝なのだが、エースとしての可南子ちゃんは一安打無失点、21奪三振で外野飛球ゼロ。四番打者としては5打数5安打6打点2本塁打である。もちろん内野ゴロを確実に処理する内野守備と、可南子ちゃんの鋭い変化球を逸らさずに頑張ったキャッチャー敦子ちゃんの奮闘があっての完封だし、可南子ちゃんの前に確実に出塁した他の選手がいたからこその大量得点である。そのことは可南子ちゃんがいちばんわかっているようで、チームメイトたちと肩を組んだり、笑い合いながら背中を叩いたりしてはしゃいでいる。あの調子なら、作新時代の江川みたいになる心配はないわね。
「これで野球同好会の部への昇格要件は揃ったね。このチームが同好会じゃしゃれにならないしね」
令ちゃんが言う。試合後のグラウンドでは山百合会臨時会議が行われている。議題はもちろん由乃が提出した動議について。
「異議なし」
「異議ありません」
祥子さまと志摩子さんが続く。
「よかったね由乃さん」
祐巳さんが笑う。
「ありがとう、祐巳さんのおかげよ。あと、志摩子さんと乃梨子ちゃんのチアのおかげもあるかな」
由乃が笑いかけると、志摩子さんはおっとりと微笑み、乃梨子ちゃんは自分の服装を改めて認識したのか赤くなる。その顔がおかしくて祐巳さんと由乃は肩を組んで笑い転げた。
「さて、と」
由乃にはもう一つ大仕事が残っている。
「頑張ってね、由乃さん」
「ありがとう、祐巳さん」
やっぱり祐巳さんには、由乃がこれから何をしようとしているのかお見通しだ。しつこいようだけれど、その洞察力を電動ドリルにも向けてあげてね。

「可南子ちゃん」
可南子ちゃんはチームメイトたちが着替えに向かった後も、ユニフォーム姿のままグラウンド裏に残っていてくれた。膝に付いた土が頼もしい。
「野球同好会の部への昇格が仮決定したわ。正式には学校側に書類が受理されてからだけれど、山百合会の決定が覆った前例はないから、ほぼ正式決定と思っていいわね」
「ありがとうございます。それで……」
そう。こんな事務的なことより、ずっとずっと大切な話がある。
「可南子ちゃんも私に話があるんだったわよね?」
「いえ、私の話も、たぶん由乃さまと結果的には同じことだと思います……」
赤くなって俯きながら、可南子ちゃんは由乃の右手を見つめている。右手は、知らず知らずのうちに服の下のロザリオを握りしめていた。
「そう。じゃあ話が早いわね」
由乃は両手を首の後ろに回す。傾き始めた太陽が眩しい。その眩しさに、由乃は誰かさんの輝くおでこを重ねていた。
(賞味期限、間に合いましたからね。楽しみにしていて下さい。びっくりするくらい面白い結果をお見せしますから、覚悟していて下さいね)
身長差25cmのでこぼこの影が、夕日のグラウンドに重なった。まだ見ぬアルプススタンドの大観衆が二人を見守っていた。

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