We Are Not Alone

「河野さん」
久寿川先輩が俺を呼ぶ。始業式の準備に駆けずり回っていた俺は、照れたように微笑む先輩の顔を見て、初めて自分が結構疲れていることに気がついた。
「先輩、どうかしましたか? なにか問題でも?」
「ううん、そうじゃないの」
先輩は落ち着かない様子で周囲を見回し、ふぅ、と可愛らしく息をついてから、改めて俺に向き直る。
「河野さん、あのね、ええと、」
ひとしきり逡巡する小動物のように目線を泳がせてから、久寿川先輩は俺に小さなジュースのパックを押し付けた。
「え?」
「これ、飲んで」
それだけ言って、先輩は真っ赤な顔を俯かせたまま走り去ってしまった。
「ええと」
押し付けられたのは黒酢ジュース。強豪チームをあっという間に弱小球団に転落させたかつての名将を思い出させる商品名のジュースは、先輩らしいといえば先輩らしい微妙な選択だ。でも、先輩が俺のことを思いやってくれたジュースなんだからありがたくいただくことにしてストローを突き刺した瞬間、あまりにも聞き慣れた軽薄ボイスが、首に回された腕の感触と同時に耳に突き刺さった。
「よーよーこのラブコメ野郎! 愛しの生徒会長さまから愛の差し入れかぁ? まったく『女の子は苦手♪』な貴明くんはどーこいっちゃったのかなー?」
「そんなんじゃねえよ」
俺は悪友の腕を振りほどきながら仏頂面を作ってみせる。実はちょっとにやけてしまっていたのは内緒だが、こいつには見透かされてしまったらしい。
「いいよなあモテモテ君は。とりあえずそれよこせ。生徒会長さまと間接キス、っと」
雄二がジュースのパックを奪ってちゅるちゅるとストローを吸う。ったく、こいつには仕返しをしてやらんとな。
「それ、俺と間接キスだぞ」
「ぶへえっ! お前それを先に言えよ! んだよ気持ちわりい」
「嘘だよバカ。俺もまだ飲んでないよ。ストロー挿しただけだ」
「ちぇー。そんな気色悪い嘘ついてまで久寿川先輩からもらったジュースは渡せねえってか? 少しは幸せのお裾分けをするのが恋愛帝国主義の勝者の義務ってもんだぞ」
こいつは相変らずわけの分からないことしか言わない。大体態度が今までと違いすぎないか。
「お前、久寿川先輩のこと、鬼の副長とか冷血とか好き放題言ってたじゃないかよ。何でその先輩のジュース欲しがるんだよ」
「かー、分かってねえなあ貴明よお。今や生徒会長の好感度は赤丸急上昇中。この学校の女子の中でも多分人気ナンバーワンだぜ」
そうなのだ。冷酷な生徒会副会長として辣腕を振るっていた久寿川先輩だが、その実態が子供っぽくて可愛らしい女の子だということが、この間の終業式の大騒ぎで露見してしまっていたのだった。おかげでその辣腕ぶりまでが「虚勢を張ってたなんて可愛い」というような評価にすり替わってしまった。もともとが凄い美人なのだから、中身も可愛いとなればそれは人気も出る。ま、その可愛さを最初に発見したのは俺だという自負もあるのだが。
「でもよ、せっかく人気爆発と思ったら彼氏がいるってんで、男どももがっくりってわけよ。だー、会長も罪だねえ」
ちょっとした自負心に浮き立ちかけた俺の耳にとんでもない単語が飛び込んできた気がするんだが。
「おいちょっと待て雄二。久寿川先輩に、か、彼氏ぃ!?」
彼氏がいるなんて聞いてないぞ。どこのどいつだそれは。
しかし、雄二は慌てる俺を憎しみを込めた目でにらみやがった。
「貴明、お前それ本気で言ってるのか?」
「本気ってなんだよ。本気も本気、彼氏のことなんてこれっぽっちも知らなかったぞ、俺は」
俺は思わず雄二につかみかかりそうになってしまった。雄二の目に浮かんだ俺への憎しみは哀れみと呆れに変わる。
「ったく、ホントに分かってねえのかよ。鈍感にも程があるぜ。生徒会長のそばにいる男なんて一人しかいないだろうが」
「へ?」
状況を整理しよう。生徒会の正式メンバーは、生徒会長である久寿川先輩一人。で、押しかけお手伝いの俺。生徒会は現在二人で動いてるわけだ。そのうち男は一人。
…………
ってえええ!?
「もしかして、その彼氏って、お、俺のこと?」
雄二は大袈裟にこめかみを押さえて溜め息をつく。
「はぁ。お前以外誰がいるんだよ。貴明が久寿川先輩の彼氏だと思ってないのは地上でお前だけだぜ」
な、なんですとー???
さらに雄二が追い討ちをかける。
「大体よぉ、こんな明白な物的証拠が挙がってんのに白切ったってしょうがないだろうに。あー、ラブラブファイヤー、愛の生徒会。公私混同にも辣腕を発揮、ってね」
そういいながら雄二がひらひらとかざして見せたのは学校新聞だ。俺はそれを奪い取って該当個所を貪り読んだ。そこに書かれていたのは。
「久寿川生徒会長、副会長に河野貴明君を指名」
という文字だった。雄二が言った「愛の生徒会」だのなんだのいう頭の悪そうな煽り文句が本当に書いてあったのはこの際無視して、ここで問題にすべきは俺が副会長に指名されてるということが既に報道されているという事実だ。
「な、なんじゃこりゃー!?」
思わず叫んでしまった俺を見て、雄二はにやにやと意地の悪そうな笑いを浮かべる。
「なんだお前、その分じゃ直接聞いてないのか。でもまあ、お前のことだ。面と向かって言われるとへんな遠慮をしそうだから、まずマスコミ人事で外堀を埋めて何がなんでもお前を副会長にして公私共にそばに置いとこうっていう生徒会長の強い意志の現れってわけだ。くー、さすがだねえ」
なにがさすがなんだか。久寿川先輩はそんなことをする人じゃない。だいたい、俺のことなんて……、と思いかけたが、俺だって先輩が俺に向けてくれるようになった笑顔がはっきりと変わってきたことは分かってる。もしかして、先輩が俺のことをちょっとでもそんな風に思ってくれてたりして、なんて考えてるうちに自分でも顔が赤くなっているのが感じられた。
雄二はそんな俺をイヤな笑顔で眺めていたが、急に沈鬱な表情を作ってから低い声で言った。
「とにかくだ。憧れの美少女生徒会長にはとっくに虫がついちまったわけで、世間の関心は超新星に向いてるんだよ」
「超新星?」
「そう。名門九条院から突如現れた、規格外のボディーを持つスーパーお嬢様に、だ」
それを聞いた途端、俺の背筋を何かとてつもなく嫌な予感が走り抜けた。
「お、おい。それって、ま、まさか……」
「みなまで言うな」
「タ、タマ」
「言うなっつんてんだろうが!」
話を振った本人だというのに青い顔をして雄二が吠える。今朝、通学路に突如現れた予想外の人物。その名を口に出すどころか思い浮かべるだけで脂汗が流れる。その名をみだりに口にしてはならない。俺の動物的カンが叫んでいる。
「あ、あの人か」
「そう、あの悪魔だ」
「た、確かに見た目は凄いもんな」
「見た目は、な。外面は完璧だからな」
「あははははは」
「あははははは」
…………
ひゅうぅう〜。
乾いた笑いは一瞬にして消え去り、場を沈黙が支配する。俺と雄二の間に、なんとも形容しがたい風が吹いた気がした。
と、とにかく何か言わなければ。
「ま、まあさ。副会長のことは、俺が自分でちゃんと確認してくるよ」
必死で話を元に戻す。この話題だって余り触れたくはないのだが、あの人の話題よりははるかにマシだ。
「あ、ああ、そうだな」
雄二もなんとか表情を立て直し、もう一度にやっと笑った。
「貴明、お前副会長やるんだろ? そんなポジションを人に渡すつもりはないだろうな」

続く

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